スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

津原泰水『11』「五色の舟」 夢の岸辺

落渕です。
久々に読んだ本の感想など。

津原泰水さんです。『蘆屋家の崩壊』以来。最高傑作という帯にひかれまして。


11 eleven11 eleven
(2011/06/16)
津原 泰水

商品詳細を見る


11の短篇集ということで、一作ずつのらりくらりと書いてみたいと思います。


巻頭を飾る「五色の舟」。
ざっとあらすじを言ってしまいますと、戦中と思しき時代、語り部の「僕」を含む見世物屋一家が某所に現れた「くだん」を探し、「くだん」にまつわる怪異に巻き込まれて…という流れです。ノスタルジックさ、異形感、少しSFチックな仕掛け、と、和製スチームパンクといった印象です。
「くだん」を巡る事件がメインプロットではありますが、短編だけあってあっさりしていまして。どちらかと言えば、「僕」を含む見世物屋一家の設定が、この世界観の中核を成していると言えるかもしれません。


本作のキーコンセプトは「夢」ではないかと思います。

見世物屋の一家は、異形の世帯です。脚のないお父さん、一寸法師の昭助兄さん、元はシャム双生児で今は体中に鱗の刺青をしている桜、膝の関節が後ろ前の牛女の清子さん、そして、腕無しの「僕」。

語り部の「僕」は、腕がない上、耳も聞こえません。桜とだけは「特別な言葉」で話すことができますが、「僕」も桜も普通に話すことはできません。
「僕」は耳は聞こえないが、他人が何と言っているかは分かる、という特別な境遇の語り部です。このため、作中では、通常の人物の発言は 丸括弧("(" と")")で表され、「特別な言葉」は、鉤括弧("「"と"」")で表記されています。

「僕」と世界の距離は「遠い」のです。
目に見えるし、聞くこともできるが、どこかフィルターにかかったようにぼやけていて、触れず、話すこともできないもどかしさがある。そういう世界で、お父さんが「くだん」を手に入れようとするのを見ては、不安を抱えたりする、そんな語り部の「僕」です。



見世物屋一家は、各地を巡る生活をしていて、舟に住んでいます。川辺に浮かぶ舟、が本作の絵です。
「僕」は作中で繰り返し夢を見ます。

一家が乗る舟が沖合に出ていて、他の舟とぶつかりそうになる。すれ違う時、家族の誰かがそちらの舟に乗り移ってしまう。相手の舟が見えなくなってから、気づくと元の舟に家族全員が揃っている。

というものです。
この舟の夢は、本作後半で「くだん」によって起こされる、パラレルワールドへの乗り換え、を予知するような内容となっているのですが、このような夢の光景の描写は、作中の「現実」における異形達の舟上生活の夢幻性と折り重なり、読者にとっての「現実」の所在を揺らすものとなっています。

舟の夢の後、「僕」と桜が夢の内容を伝えようと脚で絵を描いたり、必死で「舟」と声に出してみたりするシーンは、夢の中で何かをしようとしてできないような、もどかしさを連想させます。



本作の結末では、前述の通り「くだん」によるパラレルワールドへの移動によって、多重世界に多重に存在する自分達、という感覚が提示されて終わります。
この多重感は、作中設定で、というだけでなく、「僕」による、夢の延長のような語りによって、読者にとっても夢の中に迷い込んだような感覚として現れてきます。


本作の末文は以下となっています。

色とりどりの襤褸をまとった、あの美しい舟の上に。



五色の舟、というタイトル。五という数は、「僕」達の家族の人数と一致するのでその意味もあるでしょう。ただ、夢の中の舟、というイメージからすれば、一定でなく見るたびに変わるようなとらえどころのない色、として見るのがいいかもしれません。
光が眩しく反射する水面にあって、ひとつの色におさまらない、そんな舟の風景が本作から浮かび上がってくるのでは、と。

※ 水面、というと『蘆屋家』の「水牛群」もそんなイメージだったような…。


----
落渕
スポンサーサイト

Powered by FC2 Blog

FC2Ad


Copyright © クーロンパンダ All Rights Reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。