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『紫色のクオリア』 SF、文学、ライトノベル

8月になった落渕です。暑い。


紫色のクオリア (電撃文庫)紫色のクオリア (電撃文庫)
(2009/07/10)
うえお 久光

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2009年7月刊だからちょうど1年前ですね。
各所で評判は聞いていたのですが、ようやく読みました。

人間がロボットに見えるという少女、毬井ゆかりと、語り部であるその友人の波濤マナブの物語です。
実質的には2話+エピローグの構成でして、第一話は雑誌に初出、第二話以降が書き下ろしとのこと。

「見えているもの」は人によって異なる。
Aさんにとっての「人間」とBさんにとっての「人間」が同じに見えるとは限らないし、違ったとしてもそれを立証することはできない…。
これ系のネタでは有名な作品が出ていますね。『火の鳥 復活編』とか、『沙耶の唄』とか。(あれ、他は知らない…)

なので、あらすじを聞いて「大体こんな話だろう」と想像される人は多いと思うのですが(自分もそうでしたが)、さすがにその手の予想は超えてくる出来でした。

大きいのは、語り手が、ゆかりの友人の波濤マナブである、というところですね。
第一話では、マナブ視点から、ゆかりの異能を知るところ、それが起こす事件に巻き込まれるところ、などが描かれます。いわゆる普通の学園モノで、アツアツな親友っぷりを見せつけられる感じです。
形としては、ゆかりの存在が、一般人のマナブの考え方を変えてゆく過程を描く、といったところ。例によって、ゆかりの異常性に壁を感じたり、それを友情パワーで乗り越えたりとかですよ。この辺の展開はあらすじから想像できなくもないと思います。

しかし…、予想できない展開というのが第二話からです。
第二話はほぼマナブの物語になってます。量子力学関連の色々な科学ウンチクを背景に、波濤マナブがゆかりを取り戻すための長い長い旅をする、という感じです。ネタバレは回避しておきたいですが…ここに至ってはゆかりの眼の能力云々の話は飛び越えていて、壮大でダイナミックなガチSFモードに入っています。これはさすがに予想できんぜよ。

…と、まあ紹介はこの辺で。

で、タイトルにつけた「SF、文学、ライトノベル」というあたりを語ってみようかと思います。

● SFは文学か科学か

本作は「SFです」と言い切ってしまえるくらいにはSFしてまして。量子力学やら、クオリアやらの理論が紹介され、その不思議さやら可能性やらを、物語を通じて感じることができます。
ただ、それらの科学的設定というのは、マナブがゆかりを理解し、ゆかりを取り戻すために使う道具たちなのですね。マナブは、どんな手段を使ってでもゆかりを取り戻す、と宣言し、その目的を果たすために、世界を解釈するための様々な理論を「トライ&エラー」し、道を切り開いていきます。

この「トライ&エラー」の過程は、マナブにとって「言葉による世界の記述の再構成」なのですが、これは、マナブの行動を追体験する読者にとっても同じことなのですね。
この「世界の記述の再構成を追体験」というのは、SFに限らず、小説・物語全般で可能な体験です。SFの場合に特殊なのは、「世界の記述」に科学的な裏付けがある、とすることで、それが現実世界にも適用可能である、と読者に思わせるところなわけです。

で、本作、マナブの「世界の記述の再構成」は、量子力学の理論を借りて行われることもあれば、ゆかりとの会話を通じた「気づき」によって行われることもあります。この「再構成」が行われる度に、マナブはゆかりとの距離を縮めていくわけですよ。
科学だけじゃなくて、科学を取り込んで、正しく物語として消化してますよね。

まとまるようでまとまらないですが…困った時の箇条書き…。
・ 言葉で世界を記述するのが小説という物語媒体の特性。
・ 世界の記述の仕方は、記述者に応じて無限大のバリエーションを持つ。
・ 特に一人称にあっては、世界の記述が再構成されること、は語り手の思考・感情の変化の表現手法として有効。

※ そしてこれらの特性は、現実世界における人の世界認識とほぼ同じである。

・ SFにあっては、世界の記述に科学的理論背景を与えることにより、説得力、現実との関連性を強化される点が特徴的である。


なんか、余計ややこしくなりましたが…。
とりあえず、本作、SF的設定を上手く使いこなして、すごく、ちゃんと物語してますよ。オススメ。
以上。




● これはライトノベルか

もう一点。
「ライトノベルは文学か」的なめんどくさい話に近いので、気をつけて触れたいところですが…。

実際自分で読んでて、「まあ、確かにラノベっぽいな」と思ってしまったわけです。
その心は、というと、設定の層、人物の層、プロットの層、語りの層、の四層で考えた場合に、キャラクターの層が薄いんじゃないかな、ということでございます。

要するに、人物に背負わせているものが軽くて、設定やら理論やらによって物語がドライブされてるのですね。
対して、いわゆる純文になると、逆に、人物を重くして、ほとんど設定やプロットに頼らずに物語をドライブさせる傾向が多いかなと。

良い悪いの話ではなく、これは作品設計時点でのコンセプトの差ですね。
設定やプロットを軽く、素早く回すことで、読みやすくしたり、それらのダイナミックな展開を楽しむことができるわけですので。

「ライトノベル」の「ライト」は「人物の軽さ」の「ライト」?
おやおや、びっくり新理論の誕生…。


※ 正直、この手のレッテル論争嫌いなんですけどね…。


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落渕

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